September 21, 2005

小川博久先生講演会『近年の子育て支援策の問題点』

昨年、11月16日奥沢区民センターにておこなわれました、存続を願う父母の会主催講演会、小川博久先生の「近年の子育て支援策の問題点」講演会録です。

世田谷区立幼稚園の存続を願う父母の会主催  
第2回講演会  平成16年11月14日  

近年の子育て支援策の問題点

講師  小川博久先生
日本女子大学 家政学部教授/日本保育学会会長  

 世田谷は下馬幼稚園で2年間交換研究をやらせて頂き、幼稚園の先生と2ヶ月に1回ぐらい研究会をやり、2年目で公開研究をやったと思います。私自身でいえば、25年ぐらい前から東京都の公立幼稚園の公開研究会、週、月1回ぐらいで来るんでしょうか、65園ぐらいの公開研究のご指導をさせて頂くという点でいえば東京都の公立幼稚園でまわらない区は全くありません。ほとんど全区の幼稚園をまわっているということで、東京都の公立幼稚園を1番良く知っているのではないかと思います。
 その他、小田原市は5年間通っておりまして現在は、静岡県の浅羽町とか東伊豆町、そういう所に継続して通っているということであります。そこで何を見るかというと、保育者と子どもの関係を見、子どもの育ちを見るわけですね。
最近、私、つくづく思うのは、公開研究会は公立幼稚園でだんだん無くなりました。河邊貴子さんにはお呼びがかかっているのかも知れないけれども私には来ない、研究会があまり行われなくなった、予算が無くなったということであります。
 実は学校の先生と比べて保育者というのは、絶えず自分の保育の姿勢を振り返らないと子どもにいい関係がとれないという職業であります。日本のお母さんというのは、ここにいる方がほとんどなのですが、今も残っていて、母性の意識というのが強い方が多い。子どもに対して非常に深い愛情を示すということがこれまでの伝統であるわけです。ところがその事が持っているマイナスが集団保育の場合に出てまいります。
子どもが自由に遊ぶという時に、一人の子どもにかかってしまって、気がついたらあと20何人かの子どもを見逃していたという事があります。保育という仕事は、クラス全体の子ども達を把握しながらなおかつ一人一人の子どもにどう援助するかという事でいえば、複眼の姿勢が必要で、一人の子どもの気持ちをしっかり受け止めながら子ども達全体をしっかり把握するという2重の課題を背負った職業であります。ですからクラス全体がとてものびのびとしてくれば、子ども達が全体に良くなって来るし、それは一人一人の子どもに目をかけると同時に全体を見失ってはならないという仕事であります。そうすると、これは野球でいうとヤクルトの古田さんみたいな役割が必要な職業なのです。近くの子どもにちゃんと目を向けながら、「ああ、そう?」って言いながら、この子に対する援助がおせっかいになったらスーっとぬけて、その時には他のこちらの方の子どもがさっき問題だったけど、『あの子はどうかな?』って最初の子から離れたとたんにこちらに目が行ってなければならない。そういう職業です。
幼稚園に行くと、特に自由の遊びの幼稚園に行くと、例えば二人のお子さんが「先生!来て!来て!!」って言います。そうすると最初にこちらの子が来ました。その次の子がこちらの子です。まず保育者がこちらの子に向かって「なあに?」って聞きます。するとその子は3歳で言葉が充分でない!「先生あのね!ええと、あの・・・ええと」っていうと先生はずっと待ってなきゃならない、でも次の子が待っています。その時に保育者はおもわず「はやくいいなさい!」って言ってしまう、それでは子供の自発性を大事にしていない。
ものの本には一人一人を大事にしなさいといっている。いっぺんに二人来たらどうするの・・・杉並の幼稚園の先生方に「二人いっぺん、三人いっぺんにきたらどうするのですか」と聞かれたときに私は「どうしようもありません!!」って答えました。そうしたら先生方は、この先生、ど素人だと思ってわーっ!と笑ったんですね、その後で私が言った言葉は、子ども達が先生の実態を把握して、今だれちゃんが行っているから、僕は待っていて、先生のあの話が終わったころ僕は出て行こうというような、子ども自身の判断ができる、そういう子供を育てなければいけないという事を言いました。
例えば4歳の子どもに絵本を読み聞かせると、「先生!あのね!先生あのね」とみんなが言います。そうすると、お話ができなくなる。そうすると「シー、シー、シー」と言います。そうすると、みんな静かにはなります。これは学校と同じだ。ところが5歳になると、すばらしい絵本の読み聞かせの先生は、「太郎君はじっとうずくまってしまいました」と言うと、子どもが「お腹、いたくなったんじゃない?」「身体の調子が悪いんだよ。」という。子どものそういう発言をうけながら、先生は次のせりふを言います。つまり、自分の読み聞かせの間に、子どもの発言がどんどん、ピシッと入ってくる。こういう先生の読み聞かせは、一人一人の子どもを大事にしながら読み聞かせをしている。子ども一人がそのつど、発言できるわけです。歌舞伎に行きますと、「なりくまや」とか言いますね。ちょうどあれとおんなじです。その合いの手が入るのが、芝居を良くしていくみたいな関係が実はあるのです。そういう保育を私はなんとか先生方に育てようと思っている。
今、子育て支援でとても大事な事は、親が自立する事です。ただ単に、育児不安から逃れて子どもを全部施設に預けて自分が解放されていますよという事はいいかもしれません。だけど、子育てはずっと大きくなるまで続きます。そうすると、子どもが自立してくれないと子育て支援は子どもを支えてくれるかもしれないけれど、小学校、中学校行ってまた、高校に行って問題が出るでしょう。そうすると、子どもが自立するとともに親も自立しなくてはいけない。両者が自立しなくてはいけない。お母さんが自立しようと思っている時に・・・自立という事は、しっかり子どもと向き合う事ができるために・・・子どももしっかり自立できなくてはならない。
生活習慣の自立と言う事をある保育所で僕は見ました。最近、非常に悩んで、子育て支援で問題だと思うのは・・・公立保育所に行きました。公立保育所の場合、とても大切なことは、子どもの自立と言う事です。生活習慣の自立が保育所で一番大事なことです。そこの保育所の先生方、50代の先生が「お母さん方がどうしようもないよ。生活習慣が自立していない、だから、朝、登園の時に、9時に連れてくる事ができないお母さんがいます。本当に困ったもんだ」というふうに言うわけです。そりゃそうですね。私はなるほどと思いました。ただ、箱根の温泉場の保育所なんかですと、仲居さんのお子さんなんかがいっぱいいますから、どうしても朝遅くなるというのが分かるでしょう。ところが、普通のサラリーマンの家庭のお母さん方が夜更かしするものですから、朝9時に子どもをつれてこられない、これは由々しき事だというふうに、保育者が言った。で、私はその発言と非常に奇妙だと思ったのは・・保育者の保育を見ました。どういう保育かと言うと、ちょうどプールを終えて、子ども達が、3歳児が部屋に入ってくる、入ってきた時に、25,6人います。すると、先生は、子どもの着脱衣を3歳だから手伝う。ところが、子どもが、なかなか言う事を聞かないで、すっぽんぽんで走り回ったりする。なかなか聞いてくれないから、時間がどんどん押せ押せで来る。二人の保育者で、一人はお弁当を取りに行っている。お弁当を取りに行っていて、そして、待っているその間、保育者は一生懸命着脱衣をやっているが、子どもは逃げ回っている。時間が、お弁当の時間になって、保育室にテーブルを出さなくてはならない。その人は、子どもに、着脱衣を「自分でやりなさい」と言って、見切り発車してそこに机を並べる。机を並べ終わった時にはお弁当がやっと来るのですが、その時でも、まだ着脱衣ができていない子どもがいる。慌ててやって、テーブルに着けさせて、お弁当・・・とみた時に、あ、保育者がお手伝いさんをやっていると私は思いました。保育者がお手伝いさんをやっている、わかります?・・子どもの身辺自立ができてない。一人一人、23人のパンツをぜんぶやって、23人に23通りやったら、時間がどれだけかかると思います?できる子がいるでしょう・・だれちゃん上手だね。ほら見てごらん、だれちゃん、上手だよ。といったら、他の子は大体、先生に褒められたいと思うから、自分で一生懸命努力する。そして、時間内に子ども達が自分で着脱衣をできるようにするというのが保育者の役割です。おまけに、お弁当の時に、私の知っている幼稚園では3歳でも皆で机を出すという努力をします。これは自立です。共同生活。こういう事ができなければ、子どもは自立していかない。身辺自立が。その事をきちっとやらせるという事が保育者の役割でしょう。それができてない。
お昼休みの時に、「子どもは午睡のとき寝ない」と言うのです。「寝ない 」と新卒の保育士が泣いているのです。私、見せてくださいと行きました。やはり、プールの後ですから、プールからあがった後、保育者が一生懸命、髪をタオルで拭いてあげている。拭いてあげるでしょう。そうすると、拭き終わったら子どもは、部屋に入ってくるわけです、入って来て、ベビーベットの2階の高いほうに乗っかって、レゴブロックを子ども達三人ぐらいで廊下にむけて、ボンボコぶん投げている。保育者は子ども一人一人のプールからあがってきた髪を直すのに一生懸命だから、部屋の中でレゴブロックをぶつけまわっている子どもの姿に気が付かない。で、私は、後でその保育者になんと言ったかというと、あの状態じゃ、絶対お昼休みに午睡しません。遊びというのは、興奮してはしゃぎまわる事ではない。プールからあがってきてから、ブロックを投げてはしゃぎまわって、キャーキャー言って興奮しまくった子どもが寝ますか?寝ないんです、これは。だから、その保育者に何を言ったかというと生活リズムをきちっと整えてやらないと子どもは寝ませんよ、と。つまりその保育者は一人一人に丁寧にやっているのだけど、子ども達全員が集団生活のなかで自主的に自分の生活のリズムを作っていく指導ができていない。こういう保育を見て、その人たちが「お母さん達が生活習慣が出来ていない」と言っている・・・
今は、年々、親が子どもに過保護になっています。お母さんも過保護ならば保育者も過保護になっているわけです。そういう実態があります。そうすると、子育て支援というのは、子どもが自立しなければ、いくらお母さんが一時的に子どもを施設に預けても、やがて子どもは家に帰ってきます。世界のどこの国を探しても、家庭教育はいらないというような国はない。
唯一イスラエルのキブツや・・昔のソ連だって家庭教育は重視していた。イスラエルのキブツに私は行きました。6ヶ月から親子が別室です。親子が別々に生活する。完全に子どもが自立する。ところが、そういうシステムが最近壊れかかっている。理由はなにかというと、親が子どもをケアしたいと思っているわけです。
やはり家庭、地域の教育力というのは家庭教育力と地域の教育力、なおかつそのなかでの子どもの自立というものがあって初めて、両者が自立して初めて子育て支援というのはうまくいく。今、実態はどうなっているか、これまで幼稚園の教育は、集団生活の中での遊びというのは、子どもの自立を促してきた。私は幼稚園教育要領の副座長として、遊び中心の保育を言ってきた。しかしながら、残念ながら今、公立幼稚園でも、子どもの自立を促すような遊びの保育が十全にできているとは思わない。私はこれまでその努力をしてきたけれど、なかなかうまくいかない。その理由はなにかというと、例えば子どもと親が家庭でも保育所でも同じなのですが、子どもと向き合っちゃうということです。
向き合っちゃうとはどういう事かというと、学校教育は先生が≪こういうところに≫向き合って教育します。これは言葉の教育です。ところが、遊びというのは物を媒介にしている。例えば、製作物を作る。やりたいと思って製作物を作った子どもは絶対最後までやり遂げないと満足しません。途中でギブアップはだめです。子どもは、僕はこれを作りたいよと思って作り始めて最後までやらないと自分の物語が完成しない。これは自立です。子どもの。保育者がそういうところをきちっと見て、かなうところが子どもの遊びという。
小学校の教育と違って何が大事かというと、小学校は子どもにやる気があろうとなかろうと、授業が展開されます。幼稚園の中で、遊びが大事なのは子どもがやりたいという動機を尊重するという事です。一斉保育の授業では、これをやりなさいという。やりなさい教育の極地は大学まできて、学生たちがやる気を失っている。遊びというのは子どもがやる気を出すことです。どうしたら子どもがやる気を出すか?子どもがやる気を出すとき一番大事な役割は何かというと教育要領の中で私が入れた言葉、とても大事な一句は何かというと、二つです。一つは、大人がモデルになるということです。大人がモデルになる、そして、実際の環境の中で子どもが扱える道具や物が存在するという事です。この思想が現場に入ったら、子どもは自立するのです。ところが、入ってない、なかなか。例えば、私が現場に行って、保育をやるときにそれをやって見せるのですが、例えば、製作コーナーで物を使って作るとき、何か作っている、子どもが入ってくる、と、「あ、おはよう」と言っちゃう。こういうことをやったら駄目なんだ。私は、物を作っているのですから、そのときは子どもに愛想良くなんかしないんです。こっちに、集中しているから。子どもがやってきて、「先生、何作っているの?」「よくわかんないけどね・・・一生懸命やっているんだ。」と言ってちゃんと答えない。子どもは私のやっている物つくりに興味を持って、つまり憧れて・・・憧れるという事が大事な事なんです。憧れて、自分も近くから材料を出して動き出そうとする。それは、イチローを見て野球をやりたがる子どもと同じです。それで、自分でやりたがる。憧れで始める。ところが憧れで始まったものは、途中で、必ずうまく行かなくなる。夢だから。そこに、先生の援助が必要なんだよ。そこを、見極めて、援助する。この援助を今の親はおせっかいだからほとんど最後までやってしまう。
幼稚園の父親参観日になると、子どもと一緒に作業するのだけど、気が付いたら、ぜんぶお父さんがやっている。子どもにどけと言ってやっている・・・子どもがやるんです。援助というのは、助けてやっても最後はお前がやり遂げろ、これが大事な事なんです。アンタがやり遂げなさい。引かなきゃいけないの。子どもから引かなきゃいけないの。ところが、引けない親が圧倒的に多い。あるいは、先生も引けない。それが、親切だと思っている。後はやってごらん。やってごらんと言ってどこか、いなくなってしまう。それも駄目なんです。遠くでじっと見てなくては。もし、そこでギブアップするようだったらまた入らなければならない。こういう保育の考え方、子どもが自立するための努力をこれまで、公立幼稚園の園内研修で先生方にずっとやってきた。先生が一箇所に入って抜けなかったら、他の子の面倒みれないでしょう。援助してすっと抜けるから、他の子にも目が行く。保育と言うのはとても高度な技術を要するものです。ヤクルトの古田だよと言っているのよ。ピッチャーの球を見ていて、バッターのあれこれを調整して、いい球投げさせて、セカンドに走る選手を見ながら気が付いたら放るんですよ・・彼は頭の中に選手の事、ピッチャーの事、塁に出た敵の選手の事・・・このバッターの打つボールは、どういう方向に・・・こういう球だったらどういう方向に行くかを予測する。そして、こっちに動かせと言っている。これと同じ保育が必要なのです。こういう努力をして下さいという事を言っています。
例えば、私が、よくお母さん方に言います。「あなた方、ご主人と話をして相手の目を見つめて何分もつ?」って。長い事夫婦生活やっていると相手の目も見ないでしょう?「お帰り」(相手を見ないで)とか言っている。ところが、もしご夫婦が、お酒好きで、徳利を一本そこにおいて、スルメをおいて、お互いに呑みあったら30分から1時間持つ。いっぱいどうぞ、スルメでもつ・・ということは物があるから。お銚子があるから。だからいい関係が取れる。これが幼稚園の環境なんです。砂場がある、作る道具がある、そういう道具をきちんと用意しているのが公立幼稚園なんです。子どもが物つくりに入っていきなり、「出来た?」「何やってんの?」なんていう保育者はどじな保育者だと僕は思っている。今やっているんでしょう、見なさいよ、なにやっているかわかるでしょう。いちいち聞くなっていうの。子どもがやっている一生懸命さも分かるでしょう。
学校の先生のやっている、学校の先生と同じ、言葉で保育、教育しようとしようとしている親は絶えず声をかけてしまう。「やってる?」「何やってるの?」 ど素人ではないんだろうと言いたくなってしまう。だから、子どもが物とかかわっている時は、しっかり、子どもと物との格闘を見ながら、何時、子どもに入ったらいいか、何時、援助したらいいのか・・・それが自立への道なんです。この教育を、私は、現場で遊び保育として徹底して・・・
どういう風に部屋を・・部屋のど真ん中で作業やらせている・・何でど真ん中に机を置くのですか?喫茶店に入る時、あなた方、どこに座る?壁際に座るでしょう?安定できるからです。子ども達の遊び場所をどこに・・・子どもの居場所に、遊び場所を作りなさいよ。机の前や製作コーナーの横、遠い、はるか向こうのほうに材料の棚がある、なんということをやっているのですか?家庭ではお勝手という言葉があるでしょう。勝手がわかるという事があるでしょう。どこに何があるかがわかる、道具が置いてあるから、自分が出して使えるでしょう。なぜ、そういう環境を作らないのかと言っているのです。そういうことから始めていく。環境を作り、先生がモデルになる。モデルになるというのは、なんというか、保育というのは足し算だけではないよ、引き算だよといっています。足し算というのは子どもに絶えず物を言うお母さん。こうしなさい、ああしなさい、こういうのウザッタイ。引き算の保育をなぜやらない。子どもから,向こうから、お母さんが好きでやってくるのです。これが、お互いに豊かな関係をつくるでしょう。こういう関係を作る努力を幼稚園で私はやってきた。
今、幼保の一元化がやられているが、もともと、大正15年に幼保の一元化がありました。理由は、3歳から5歳までは保育所と幼稚園と区別してならないということでした。昭和20年にも、こういう会議がありました。ですから、理念としては3歳から5歳までの保育は幼稚園も保育所も基本的に同じであるべきだという理念は正しい。昭和38年には、保育所保育指針は幼稚園教育要領に準じるということで、その保育の中身を一緒にしようとする考えがあった。
ところが、現在の幼保の一元化はそういう子どもの生活実態を一緒にしよう、同じ土俵で子ども達の保育をしようという考えから出てきているのではない。財政的な理由です。財政的な理由でも良い、一応は。ただ、その理念と幼稚園でやられてきた保育の中身を一体化するということを、せめてする努力をしてほしい。財政側で。実は、幼稚園と保育所というものは100年の歴史があります。保育所はもともと、低所得者層のための施設として発展してきました。幼稚園の半日保育というのは家庭保育と連携してですから半日でした。ところがその理念は現場の子育て状況によってどんどん形が変わり、幼稚園は長時間保育をやるという風に形態が似てきた。
ただ問題は、私が武蔵野市の教育委員会で幼保の一元化、境幼稚園と境保育所の統一のための会議の議長をやって、その中で私が提言したのはなにかというと・・・同じ幼稚園と保育所は一体だと言っているのはお役所です。例えば、皆さんがた、一度結婚されて、一緒に暮らして、でも別居しようといって3年間別居した。と、もう一度、一緒にやり直そうといった時に、その夫婦が最初からスムーズに行きますか?
保育というのは保育者にとって日常的なことです。半日保育する幼稚園の先生方の職場感覚と保育所の1日中保育する職場感覚とは一緒になった時にすぐ、スムーズにやれると思いますか?こういう感覚がお役所にない。ですから、幼保の一元化の理念をそういう形で一体化するならば出来るだけ一元化をゆっくりと、中味の先生方がお互いを相互理解できるようにやってくれという風に私は言いました。そこの課長さんが、「現場の先生がちゃんとやってくれないから、我々が幼保の一元化を進めるしかないんだよ」と私に言いました。私はその時に、その課長さんを怒鳴りつけた。馬鹿いうなと。「今まで、幼稚園の先生と保育所の先生が一緒になって研究する全国の機関が、何があったのか言ってごらん」と。全国放送研究会だけは保育所の先生と幼稚園の先生と一緒です。それ以外に研究機関で幼稚園の先生と保育園の先生が共同でやったということはほとんどありません。個人参加は別として。
お役所がそういう手立てを講じてきたか。これまでに。幼保一元化するならば、まず、実際に現場で働く幼稚園の先生と保育所の先生が一緒に働けるような状況つくりをあなた方役所はこれまで研究や実践においてやってきましたか?やってないのにいきなりやれといったって、うまく行くわけないでしょ。そういうことについての配慮はしてきましたか?役所として。内側の保育者の状況が分からないから、例えば、泉保育園にしてもうちの学生が卒業論文でそこに入って実態が明らかになる。全く役所でいうと課が別のようになっている。子どもは一緒でも,課が別のようになっていて先生同士のコミュニケーションがない。今それを総合施設でやろうとしている。中味、理念は一体化だけど、建前は一体化だけど、本当の理念、3歳から5歳の子どもが同じ世界を生きているよ、そこを一緒にしようといったところのあわせをどうやってやるのですか?
もう一つ例を挙げますと、カリキュラムがあります。幼稚園の先生はしっかりとしたカリキュラムを書きます。字に書きます。こうやってこうやって。保育所の先生は、書けない。そうすると幼稚園の先生が保育所の先生は能力がないよととるんです。事情が違う。一日の長い生活のリズムをカリキュラムという風に呼ぶならば、一日の長い生活のリズムをたてる保育者はそんなに綿密な計画は立てられないのです、実感からいって・・・。幼稚園は短いからたてられる。どうやってこの二つの人たちを平等にあわせていくのですか?ですから、園外保育なんかも幼稚園の先生と保育所の先生は違います。これ、一般論ですが、例外もあるかもしれません。見ていると保育所の先生が園外保育に行く頻度が多くなります。日常的になります。そうすると年長さんの保育に限っていえば、保育所の先生の方がどちらかというと園外保育に行く時に楽しそうでないのです。交通事情が心配になるのです。幼稚園の先生は前もってしっかりと計画立てて・・回数が少ないから。万全を期していく場合には、多少、「あ、この花きれい」なんて言える余裕があるかもしれない。そういうところから、もう、違うんだよ。それをどうやってあわせて行くの。文化をあわせていくのです。幼保の一元化というのは。その幼稚園や保育所の生活を生きている人たちの生活実感に合わせなくては、子どもは安定しません。
遊びも違うんですよ。例えば、おかたづけをする。かたづけを見てますと、かたづけが嫌だよと言いだすのは5歳なんです、幼稚園の場合は。ところが、保育所は4歳で嫌になる。なぜ?・・毎日やる行為を子どもにやらせる時、かたづけというのは遊びと同じだから、楽しくやろうというようなことを言っても、どうしても、毎日の日常実感としては保育所の方がしょっちゅう子どもと向き合っているわけですから、そんなことやってられないよという意識になる。 と、口うるさくなる。お母さん方と一緒です。幼稚園の先生が子どもの立場に立って行動する、保育を一生懸命やっているけれど、自分がお母さんになった時にそれをやれるかというと、とても出きません。怒ってるちゅうに。そういう格差をきちっと見て、細やかに、ゆったりと幼保の一元化をやるのだったら、反対ではない。僕は。そういうことをきちんとやるのならば、それでもいいのです。ブルト-ザーで均すようにやられるから・・それ、中味分かっているのかと言いたくなる。
財政的な理由が緊急であるから・・・それは分かります。それを、きちんと地ならししていくのがお役所の仕事ではないのだろうかと私は思う。公立幼稚園の存続問題も同じ事です。公立幼稚園が生まれたのは、美濃部都政の時に膨大に子どもが増えたということで公立幼稚園を作りました。私立幼稚園からすれば、自由企業である我々の企業努力を抑圧するものだと。民営化の流れの中でいえば、公立の使命は終わりだよというようなことをおっしゃる。だけど、私に言わせれば、幼稚園が出している幼稚園教育要領の遊び中心の保育という理念を一体これまでどこが一番忠実にやってくれたかというと、一応、公立幼稚園です。理由は何かというと、私立幼稚園に対する、日常的な保育指導は役所からは入りません。私立幼稚園協会が講師を呼んで指導するという形になります。私もずっと全日私幼とか日私幼とかそういうところで、毎年講師をやっている。やっていて、非常に思うのは、私立幼稚園の研究会は季節ごとに行われるけれども、それは市場の研究会です。保育の実態から離れている。しかも、私立幼稚園は玉石混合です。電話かけて学生の就職をお願いすると、「私は文部省の教育要領に反対です」と言って、「それで私はやってきました」という園長さんもいらっしゃる。その自由も保障している。公立でもいろいろありますけれども、少なくとも、公立の場合は、教育委員会がこれに介在し、指導主事が公立幼稚園の指導に当たるわけです。ただし、この当たり方にも、不満がある。指導主事の中で一番若い高校出身の指導主事が幼稚園の担当になる。ある公立幼稚園の園長先生は「私、毎年困ってしまいます、指導主事にど素人が来るんだから。私が教育しなければならないのだから。一年経つとどこか行ってしまうよ。」こういう状態になる訳なんです。でも、一応教育委員会には、私が現場教育をやって、現場の指導にかかわると、一応私が行く以上は公開研究に必ず一回は来なくてはいけない、そういう形で教育しよう、園長も保育者も現場研修を通して自分の子どもに対する対応を磨こうとする姿勢がある。私立幼稚園もトップや組織全体としてはあるでしょう。だけど、建学の精神という建前がある以上は私立幼稚園の中味には入れない。私も、今、私立に2園行っています。名古屋と岐阜です。それは、園長が良い保育にしたいと思うからです。
ところが、文部省の教育要領の精神に全く反して、公然として・・・またそこを選んでくる親もいっぱいいる。最終的には親たちの意識の問題だと思わざるを得ない。横浜の例なんかはお受験幼稚園が並んで大変な競争率になっている。それが商売になるわけなんです。こういうお母さん方の意識がある限りは、私立もちゃんと生きていく、ということになります。公立はやっぱり駄目じゃないか、職員の給与、まあ、人件費が一番かかる、一番かかって、公立幼稚園は市民全体のものではない、一部の人のものである。そういうものが、なぜ、存続する意味がある?という風なせりふが出てくると、もう、公立幼稚園としては、立つ瀬がない。
ただ、私は、日本の教育、幼児教育の水準で考えると、ニュージーランドに行き、いろんな外国を見ていると、やはり、子どもを自立させていく、自立させるということは、緊急だと思っています。昔のお母さんがたがとっても愛情を注いだのにもかかわらず、昔の子ども達がより自立していたということは、どういうことかということを説明しますと、例えば、専業主婦の昔のお母さんはご飯を作る時に、亭主が帰って来た時に、飯でも出来てなかったら、亭主に怒鳴られるから,つくらにゃいかん。作る時に、私の小さいときには、薪をたいて、家事が1時間、2時間かかる。3品作るにも容易ではない。しかも、料理というのは同時進行です。味噌汁を作りながら、魚を焼くのです。ということは、どこか目を離したら、食えなくなってしまう。にもかかわらず、お母さんは、ここに子どもをおぶって、ここに子どもをはべらしている。物を扱いながら、子どもをみて、そして、触っちゃだめよとかいい子だねとかやっている。こういうことを昔の母親はやったわけです。ということは、子どもは、そこで、そのシステムのなかで自立させられるわけです。親の事を見て我慢しなければならない。今は何もいらなくなった。お母さんは作らなくていい。お惣菜買ってくればいい。そうなるとまさに、お母さんは、夫がいなくなると教育者のみで子どもと関わろうとする。駄目よ。ところがこの言葉で教育するというのは続かない。本人自体、精神衛生がおかしくなる。言うこと聞かないと・・・そこで最後はテレビに任せる。すると、もう耐えられない。という事で子育て支援にお願いしますという形になる。
一体、日本の未来の子どもを自立させるためにはどうしたらいいのか?このテーマが今の子育て支援から完全に抜け落ちている。私はとても今の日本の教育状況に危惧を感じております。物が無くなっている。子どもの周りから・・・子どもが自分で扱う物が無くなっている。兄弟も少なくなり人間の関係も無くなっている。そういうなかでどうしたら子どもの自立の道を探り、親の精神衛生を良くし、なおかつ子どもも自立する道を探さなければいかん。今は、公立幼稚園は子どもの自立と言っているけれど、私立はそうは言っていない。とにかく、集めて言うこと聞かせればいいんですから。私立も廻りました。良いところもあります。ところが、園バスで来ますよね、園バスで来て、そして来る間子どもたちがまさに放任状態です。10時半ごろまでは、9時から来ても子どもは、最初来た子は部屋の中でうろうろしている。10時半までほったらかしているのだから・・・10時半に、先生が、集まったとたんに一斉活動が始まるわけです。するとお弁当です。お弁当のあとは一種の放牧状態が始まる。で、またバスに乗るわけです。日本人が一人になったら弱いよ、一人になったら自分でちゃんと行動できない、集団主義だといわれている理由は・・・自分の身辺自立を自分でやっていく、そういう習慣をどうやって、どこで作るかという事についてのベースが今、いろんなところで失われている。
やはりそういう点で、この間ある地区の園内研修に行きました。そうしたら障害のお子さんがいて、その後ろから保育者がついて来る。この子は障害を持っているから周りの秩序を乱すだろうと考えている・・・駄目よ、それは駄目、後ろにくっついて、まさに後ろから介護士みたいに監視がくっついて子どもが行動しているわけです。それを見て私は非常に疑問を持った。それで、私に貸してくれって、その子を。先生(保育士)はそっちに行ってくれって。私はその子を自由にした。自由にしたら子どもは走り出した。私も一緒に駈けた。そうすると園庭の端の垣根のところまで行った。それからまたそういう事をして、繰り返している。実は、障害の子どもはでたらめな行動をするというのは一種の偏見であって、彼はある種のパターン行動をとる訳です。それで、私は、一緒に子どもとニコニコしながら走り回る。それである機会にボールが来たので、子どもの方にスーッとやったら子どもは受け止めた・・向こうからこう来た・・これをやった、そうしたら応答関係が成立した、言葉がなくても。子どもの表情が変わってくるんです・・あとで、終わった時に・・・。ここは公立ですからね、公立もこういう学校があるっていうこと・・。その先生に、子どもをしっかりみると子どもと同調する、そういう事をやるべきだって言いました。そしたら私が帰る時にその先生は玄関に挨拶に出て来なかったのです。わかります?頭にきているわけですよ、文句言われたから。こういう園もあります。
年をとればとるほど、自分の、子どもとの関係を見直そうとする意識の少ない保育者も多くなります。お母さんがちょうど自分の子育てを信じて疑わないのと同じ事、自分を振り返る事がない。そういう状態を見ていると、出来るだけ早くから、保育者は子どもをしっかり見て、子どものメッセージを受け止めるという習慣をつけないと。子どもにやたらに、私が子どもの助っ人だよと、介入するのではなくて、これは自分でやらせる。
こういう例があります。一つ例を出すとある幼稚園に行った時に、ある子が着脱衣が出来ない、一人だけ廊下にいる。先生が「集まって、みんな集まって」、その子は来ない。その子が来ないから先生が出て行って、その子の前に行って、「みんな集まったよ」と言って、その着脱衣のボタンを着けてやって部屋の中に連れてくる。そうすると、お母さんが待っている時間に間に合う。これはほとんど保育者としては当然の行為であって、誰も疑問を持たない。でも私は疑問を持つわけですよ。その子の着脱衣の習慣、着脱衣を自分で形成する努力を先生はどうやってみるのですか?集団の為につれて来ているだけですよ。ボタンというのはここにいくつかあるでしょう?園服を脱いだりする時に一番難しいのは、どこですか?首の下です、ここ。ここが一番難しい。そうしたら先生がそこに行って、「ここ留めてあげるからね、あとは、下、やってごらん、自分で。」あるいは「最初ここ留めてあげるから、最後のここだけ留めてね。」という風にやっていけば、徐々に自分でここまでいく。それを見定めて援助するのと、みんなが集まったからこっちにおいでと引っ張ってくるのとは、全然違う。そういうところをきちんとやるということ・・私たちが、研究者も含めて、保育者のそういう動きをしっかり見ていて、そして援助する必要があります。
そういう援助について、これまでどれだけ細やかな指導と援助が入っていたかというと、少なくともそれは保育所よりも幼稚園のほうが努力はされてきた。成果は別として、されてきた。そういう体制を公立幼稚園が維持して来たと私は思う。現場で指導するという事です。一番問題なのはそういう優れた保育者を養成するという事。プロとして。
こういう問題が看護婦さんにもあります。今、病院保育士というのが入っています。なぜ病院保育士が入っているのかというと、看護婦さんの仕事はもともと、ナイチンゲールの精神にあったように、一人一人の病人の心のケアや身体のケアをして     とは別にその人が社会復帰を、自立した社会復帰をするような援助をする事が看護婦の仕事です。看護婦という仕事は、発達的になっている。小児看護、成人看護となっている。ところが医学は、どんどん科学技術が進んできて、解剖学的な分類に従って医学が分かれてきます。そうすると看護婦さんは、お医者さんの助っ人という形で、補助という形で入っていますから、日本の看護婦さんは、どんどんどんどんお医者さんの技術援助みたいに入っている。そうすると、患者さん一人一人に声をかける事がだんだん無くなってくる。この間もある病院で看護婦さんが(子どもを)あやしている・・子どもが言う事を聞かない時にあやすことが必要だっていうのに対して、やっぱり看護婦というのは技術だから、腕だからね、あやすよりちゃんと注射するほうが先だよ、こういう意見があったというのです。
それを聞いた時にびっくりしたのは・・・やっぱり実はもともと、病院保育者が入った時に・・看護婦さんの誰さん元気?ああ今日はいい顔してるわね、という延長線上に、保育士が入ってくると子どもの心のケアになってくる。それがアメリカなんかでは何か別にチャイルドケア・・・特別な職業が分化して出てきているのと同じように、近代というのは、そのカウンセラーとか特別な職業が出てくるんですが。
問題なのは、一つの職業の中で、子どもに対していかに総合的に重なり合う援助が出来るかという事なのです。そういう状態の中で、これからもしも施設を一体化するならば、どうしたら保育所と幼稚園の仕事の中身を、共通性を豊かにしていくかという事なのです。≪そうすると、保育園の実践がお互いいにどう実践をやるかというと、同じようなものになる。そういうことなんですね。≫そういう状態の中で、今、公立幼稚園でこれまで積み重なってきた研修とか、保育者の力量を保持していく、その為にこれまで積み重なってきた実績を、次の世代にどうつないでいくかを考えないで、施設の入れ物を入れ替えたりするという事だけで、日本の子どもの豊かな育ちを出来るのだろうかという事を大変私は危惧している。そういう面での議論を、もっと緻密な議論を、特に政治家の方にお願いしたい。
実際に現場に来て、私の話を聞いたらわかります。これを見たら・・私は25年間現場に入っていますから。その前に子育てに7年やりました。その後7年間、私は、私の両親の痴呆老人のケアをやっています。私は理屈でものを言っていない。理屈も言いますけど。現場を通して私が感じたものは、今、子どもの自立がはかられない。非常に危機が出てきている。フランスの保育者はじいっと子どもを見ています。じいっと見ていて、そこで必要な時に入る。日本の保育者は、「ああ駄目よ」、って入っちゃう。こういうところに、子どもをしっかり見て、子どもの人格や自立をしっかり見届けていき、必要な援助は何かと考えていく体制を確立する事が、今なによりも急務であって、そのために幼稚園と保育園が一体化することが、そういった議論が出てくるのであれば、私はもろ手を挙げて賛成する。そういうものが空洞化している為に、中身がない為に、心配している。そういうことであります。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 06, 2004

佐藤学・東大大学院教育学研究科教授講演会記録

平成15年11月15日、存続の会が主催した佐藤学・東京大学大学院教授の講演会
「公立幼稚園に期待するもの―子育てと教育の未来のために」の記録です。(於・上馬高齢者集会所多目的ホール)
下記文章は、読み物としてまとめたため、実際の教授の話の中で言葉を置き換えたり順番を入れ替えたり、割愛した部分もあります。
講演会録の公開は佐藤教授から許可をいただいておりますが、下記文章の文責は存続の会にありますことをお伝えしておきます。

***************************************

私は通例、講演会はお断りするんです。学校へ良く行くんですが、講演して学校が変わった例(ためし)がないもんですから。出来るだけ中に入って行って、先生方と研究したり話し合ったりする事にしてるんです。しかし、この問題に関してだけは、世田谷区だけの問題ではなくて、今、幼児教育のあり方がどういう風に問われているのか、という事を、少し大きな視野からお話しつつ、なお且つ、消極的に考えるのではなくて、今、混迷を深めている、幼児教育全般の状況に対して、世田谷区で新しい方向を示すモデルを、むしろ積極的に模索していただき、考えていただければありがたいと思っています。その意味で、私が参考になるのではないかと考えている事を、率直に申し上げて今後の参考にしていただければと思っております。

 まず現状ですが、10年後の公立幼稚園の状況は最悪の事態です。なぜなら、10年後以内に東京都、大阪近辺、つまり大都市周辺における公立幼稚園はほとんど壊滅状態になるであろうという状況が、ここ4・5年一挙に拡大したからです。この問題の背景は様々ですが、川崎市と京都市では、すでにそういう状態を迎えています。これらの所では、公立の幼稚園を統廃合し、幼稚園と保育所の一元化を目指しつつ、これまでの幼稚園の機能と働くお母さんたちが子どもを預けられる機能とを、両方統合した、子育て支援センターという形に進んでいます。

 とある市の子育て支援センターは、いくつかあった幼稚園を統廃合し一つにして、預かる時間を延ばし、200人くらいの子ども達を、常時5人の職員が入れ替え制で、5つの遊びのコーナーごとに分かれて、子どもと対応します。「自立心を育てる教育」をスローガンとし、自主性と自立性を育てるという事です。
 どういう風に自主性と自立性を育てるかと聞くと、朝、お母さんが連れてきて、タイムカードを入れ、帰るときにはタイムカードが出てきます。その間は、いつお弁当を食べるのか、どこで遊ぶのか…全て子どもたちの自主的な判断で行うというわけです。だから、絶えず自主性が育つというのです。教育委員会の方が自信をもって言うものですから、僕はたじろいだんですけれども、で、思わず失礼な事を言ってしまったんですが、「サファリパークですね」と言ったんです。

 子どもにとって、自立と依存は決して対立のものとして考えてはいけません。自立に対して依存できるんですよ。逆にいえば依存できる子が自立できる。自立できた子が依存できる。幼、小、中学校でもそうですが、自立もできないし、依存もできない子どもが大勢います。中学で荒れている子・崩れている子が居ましたよね。その子達にこういう事をさせて見るんです(男性が出てきて、立ったまま背中から後ろへ倒れ、教授が受け止める。) こういう事です。(素直に倒れた男性に「あなたはとっても幸せに育っている。人に裏切られたことがない。」)「後ろで支えるから背中から倒れてみなさい」と言っても倒れられない。後ろに倒れるということはものすごい恐怖です。子供時代に他者に身を預けられ依存できるような信頼関係を築いていないと出来ないんです。学級崩壊のクラスの子供に、棚の上から飛び込ませて、先生やクラスメイトに受け止めさせた。そこからグルリと変わりました。身を任せ、受け止められる信頼関係へと変わっていった。そこまで築き上げることは子供にとっても大変な道のりである。子供の早いうちからの「自主性」とか「自立性」とか信じません。きちんとたっぷり依存できる、そこから自分が発見できる。信頼に支えられた一人一人の子どもが複数の大人に支えられていくネットワークが今、必要なのです。

統廃合が行われている地域の中で起こっていることは、自治体の財政問題です。どこも非常に逼迫しており、統廃合せざるを得ない状況に追い込まれているのが事実です。この状況をどのように解決していくのか。教育の問題だけではなく、地方財政をどの部分に有効に使っていくのかが問題になります。加えて、文部科学省の方針が変わり、小・中学校の少人数教育を地方自治体でできるようになったことも、問題になります。それぞれの学校で、それぞれの地方自治体がそれぞれの政策の責任をもってその教育を行っていく。そこに市民が参加していくという方向は、大賛成です。しかし、規制緩和と、地方分権が進めば進むほど実は、教育は不自由になっているのです。理由は2つあります。

 一つは財源問題です。ここ十年、文部科学省の財源は増えているが、地方の財源は落ちているのです。もう一つは、そんな中、今まで上から言われたことをしていれば良かった自治体が、自分たちの政策をと言われても地方の教育委員会が政策をデザインする能力にまだまだ乏しく経験が必要です。なお且つ、地方の選挙公約で30人学級・少人数学級が必ず出てくるんです。限られた財源の中で、地方自治体が総合的な政策を、そして教育委員会が独自の政策を持たないと、その時々の公約等によってある部分は実現するけれど、ある部分は完全に崩れていきます。

 実際に起こっている事で、少人数学級は29の都道府県に広がっていますが、公費で定員の正教員のポストを多く取っているのは新潟県だけで、ほかは、選挙公約の実行の為、予算がないのに教員を増やさなくてはならなくなり臨時採用の非常勤教師を増やしています。非常勤だらけで教育の質は、危険な事にどんどん落ちています。ある県では、教員が不足している為、辞めた教員に声を掛け再雇用している。昔は東大入るより、教師になるほうが難しかった。だから高いレベルの教師を雇えたんです。今は試験の倍率も下がり、また、臨時採用でみんな教師になれる。こういう状況が生まれています。東京都でも来年からその状況がスタートします。地方自治体で出来ることは限られていますが、これからは幼児教育を含めた全体を総合的に見ていかないと、ある部分は充実していても、実は、その陰で公立幼稚園の危機が一層深まっているというのが実情です。

 さて、日本の幼児教育というものが諸外国と比べて、どんな問題を抱えているのか、と言う視野から基礎知識を踏まえながら、将来にわたってどういう問題が解決されていなければいけなかったかを述べておきます。
 日本の幼児教育は極めて特殊です。なぜなら、2つの流れが統合されないできたからです。
 1つの流れは、幼稚園です。明治9年にお茶の水大学の幼稚園が最初にスタートします。しかし、戦前の幼稚園は、裕福な家庭の子どもだけでした。そして、戦後昭和23年にスタートしたときには就園率が7%でした。昭和55年に幼稚園の普及がピークになり数が10倍以上になりました。遊びを基本とし、生活の中で発達させるという特徴を持っています。
もう1つの流れは、保育所です。これは産業革命が起こった頃から普及します。最初に作られたのが神戸です。当時は、託児所と呼びました。これが、厚生省の管轄になっていくわけです。託児所で働く先生達のことを「ナース」と言います。看護婦という意味です。要するに、子どもたちの健康と栄養の維持が中心でした。教育は二の次と言ったらいいかもしれません。子ども達を保護し、その健康を保証していくということで、厚生省だったのです。当然、女性の社会進出と共にそれらの需要は高まり、戦後、増えていきます。幼稚園と保育所が並立している形は世界でも例がありません。極めて特殊です。歴史的には世界の国々の中にもこのような状態はありましたけれど、どの国も統一してきました。ですから、昭和55年以降、幼稚園が6割、保育所が4割に比率が安定していたこの時期に、統一しなければならなかったのです。20年来、未解決のまま現在まで来ています。
そして、もう1つ別の流れとして、プレスクールというのがあります。幼稚園のことは、「キンダガ-デン」、保育所のことは「ナーサリー」と言います。プレスクールは、就学前教育といい、小学校に入る前の教育をするところです。これは、日本にはありません。諸外国の幼児教育というと「キンダガーデン」ではなくプレスクールです。緩やかなカリキュラムがあり小学校以上の教育につなげていく準備教育をするところで、小学校につながっています。
 世界的な動向を見ると将来は、保護の施設を持つ、同時に遊びの発達も持つ、知的あるいは芸術的な素養、経験を豊かにするプレスクールとしての要素を持つという、この3つを統合した所に本来収まる所があり、それ以外に収まる所はないと言っていい。どこかで制度的に統合していかなければならないと思われます。未解決のこの問題は、行政を預かっている方々だけの責任ではないと思っています。教育学者にも責任があります。しかし、最近は幼児教育に関する研究や各国との比較、変化、実態についての研究も進んでいますので、その提言はいずれ出てくることと思います。

 そして、他の国には見られない日本の教育における大きな特徴は、圧倒的に民間依存だということです。北欧諸国は一般的に全部が公立です。私立の幼稚園はほとんどありません。アメリカの場合は今、基本的にプレスクールを拡充すること、つまり公立の範囲を広く拡大していくという方向性で進んでいます。このように見てみると、現在日本で進めている公立を無くして民営化にするという議論は疑問に思います。私は基本的に反対です。私立がいけないというわけではなく、私立と公立が共存し、なお且つ、公立を中心としたネットワークができるようなシステムを作らなければ、問題は解決できません。一度つぶした公立の幼稚園をもう一回復活というのは、本当に困難ですから、今ある資材を生かしながら将来の発展の方向を考えるべきだろうと思います。圧倒的な民間委託のこと、幼保のことなど、こういったことに対する幼児教育の政策を持たなかったツケがここまで来たと言わざるを得ません。

 そして、私立もサポートできるような政策が必要です。民間依存であること自体は決して悪い方面ばかりではないです。私立のいろいろな個性的な教育が可能な面もあります。では、一般的な家族経営の私立の中で実際起こっていることをいうと、子どもの数は200~300人必要で、そのため、先生達の数も必要になります。多くは20代の短大卒で、3・4年で辞めてもらう。こういう形が珍しくありません。これでは先生達の経験が蓄積されていきません。しかも4大卒の先生は人件費がかかりますから、幼稚園が求めていないのです。アメリカやヨーロッパの国々においては、すでに大学院卒が先生になっています。しかも継続的にやっています。幼児教育というのは、子どもと遊べばいいという話ではないですよね。人生で、一番大切な時期だと思います。その時期に、様々な感受性と経験を豊かにするということをしなければいけません。ですが、今の日本のやり方ですと、せっかく研修をやっても、辞めていくので根付くはずがありません。しかし、現状ではしょうがないのです。将来的には、短大卒の先生達が継続的に経験を積み、幼児教育が良くなっていくシステムを、公立を中心に共存しあいながら、なおかつ、その教育の質が高まっていくような教育を10年、20年計画で世田谷区が是非やっていただきたいと思います。

 さて、次に日本の幼児教育が高負担であるという問題があります。実例を挙げてお話ししますと、兵庫県の西脇市は5つの公立幼稚園と9つの私立保育園があります。公立幼稚園では、すばらしい芸術教育を中心としたイタリアの公立幼稚園の取り組みをほとんど生かした形で実践が行われて、いろいろなプロジェクト型の学習をやっています。月謝は4000円です。皮肉なことにその幼稚園に通ってきている子どもたちは、その地域の高所得者なのです。私立保育園に通っている人たちは、ほとんどが貧しい人たちなのです。仕事をしなければいけないから、幼稚園のように昼で帰って来られては困るんです。仕方がないから保育時間の長い保育園に入れて、月謝を8万も9万円も出しています。ものすごく転倒しています。公立幼稚園は良い教育をしていても、子どもの数が減っていってしまっています。今の働く親たちの要求に応えていませんよね。また、現在起こっている経済格差の状況で、公立も私立も行き詰まってしまっています。方や、高額化していくし、方や、安いままなのだけれど、高額所得者しか通えなくなっている。こういう実態がこの先どんどん広まっていくのではないのでしょうか。こういったことも、高負担の問題として考えていただきたいと思います。

 幼保一元化の現在の状況を言いますと、非常に困難になっています。今までは、3才までは保育園、4,5才は幼稚園という幼稚園を中心とした保の一元化で、発展形態を模索していたのですが、ここ数年では厚生省主導になり、公立の幼稚園を民間委託にし、働く親のサポート、少子化対策として、保育のサービスを高める方向に変わってきています。しかし、厚生省がそう考えるのは当たり前で、なぜなら、基本的に福祉はサービスですから。そして、この間厚生省の子育て政策で疑問を感じる問題がありました。一つは、母子家庭の児童補助金大幅カットです。理由は、日本の離婚率が10年前と比べて、急上昇したというところにあり、それに歯止めをかけるためのようです。確かに日本の離婚率は世界でもトップレベル達し、その特徴は、学齢期の子どもを持った夫婦の離婚が多いのです。家族制度もここ10年でものすごく変化を遂げています。結婚の平均年齢が30才を越え、結婚していない人も増えています。3分の1は結婚しない、3分の1は1回結婚する、3分の1は何度でもするということが現実化しています。ヨーロッパもアメリカも同じで、このことは、元に戻りません。誰もが結婚し、誰もが子どもを育てていくという時代ではなくっています。ここで問題なのが、一体誰が子どもをケアしていくのかということです。離婚が必ずしも不幸になるとは限りませんが、離婚に至るプロセスというのは、子どもにとってすごく厳しい試練です。私は9月に長野の小学校を訪問しました。その時小学4年生の女の子が校長に話しかけて来たんです。校長は私に「あの子は親が離婚して4月に横浜から引っ越してきたんです。最近やっと話すようになりましたが、1学期中一言も口をきかなかったんですよ。」と、おっしゃいました。私はその時既に泣いていました。なぜか。歯が一本も無いんですよ。永久歯ですよ。苦しみや悲しみがみんな歯にきちゃったんですね。4月から一本づつ抜けてとうとう一本もなくなっちゃったんですよ。もう生えてこないですよ。いったい誰がこの子のケアをするのか。少子化は議論されているのに、こういった子どもを廻る問題は議論されてこなかった。離婚率の高いカナダやアメリカでは、ついに朝ご飯の給食をはじめました。つまり、子どもを親だけに任せていくのに限界が来ているのです。このような様々な事態を考えると、厚生省の政策は、逆に不幸な子どもを増やすばかりだと思います。
 もう一つは、寝ている子どもを預けて、寝ている子どもを引き取っていくというサイクルです。このことで、出産を促進することになるのか?僕はならないと思います。子育てが楽しく、自分のためになって、幸せにつながっていくことがあってこそ、次の子どもを産み、もう一人の大変さも覚悟の上で子どもを育てていくわけでしょう。しかし、どんどん社会に出られる様に、あるいは、楽になる様に、そういう形で幼児教育が考えられて良いのでしょうか。教育はサービスなのか責任なのか、という問題です。このことは幼児教育だけではなく、小学校、中学校を含め、ここ14.5年教育におけるサービスのことばかり問われてきたように思います。教師がサービスをすればするほど、そのサービスに親が依存して、親は学校や教師にどんどん文句を言うようになる。小学校のお母さんに聞いたんです。「お母さん達、学校に子供預ける時、朝クリーニングに出すように子供預けていませんか?そして夕方引き取って、出来がいいとか悪いとか…」けしからん、もう…。考えて欲しい。お母さん達はクリーニングに預けるようにしてもいいけれど、子供達は、給食食べる時「お母さん何か作って食べてるかな」と思ってますよ。そう言う事ですよ。我々はサービスに弱いから依存してしまう。サービスにしてしまうとそうなって来るんです。そこで抜けているのが責任なのです。子育ては、責任です。おとなや社会、教師そして親の責任です。その責任を共にしあうことによって、子どもが安定し、育っていくのです。一人で責任を負うのは大変ですから、そこで、公立と私立の幼稚園が共存し、幼稚園と保育園が協力しあい、幼稚園と学校、親と教師、教育委員会と学校とが協力しあい、そういうネットワークの中で子どもたちが育っていくのだと思います。しかし、現在の教育や日本社会の問題で深刻なのは、近代の市民社会を成立させている信頼の関係です。市民社会というのは、契約関係と権利・義務関係で、これは信頼でしか成り立っていかないです。ソーシャルコントラクト=社会契約です。信頼が崩壊すると貨幣だってみんな崩壊しますよ。社会全部崩れていきます。政府と金融機関、企業と金融機関、教育委員会と学校、校長と教師、親と教師、子どもと教師、おたがいがおたがいを信頼しない。みんな信頼が崩れているのです。一番大切なのは、この信頼関係をどうやって取り戻していくのか。学校と行政や、私立幼稚園と公立幼稚園、すべて、違った機関にわたり信頼関係が築き上げていくような総合的な政策がうち立てられないと、どこを部分的に手直ししようとも、子どもの教育の問題は崩れてしまうだろうと思います。
 結論ですが、世田谷区の場合、子どもたちは増えている条件、こうして、超党派の方々が同じテーブルに付ける条件、尚且つ、他の所では進行してしまっている、公立幼稚園の統廃合・廃園が、議論にはなっていても実際には足を踏み出していない条件を考えますと、是非ともお願いしたいのが、教育委員会と議会が中心となり、今後、公立幼稚園を中心としながら私立の幼稚園との共存をはかっていける総合政策が可能かどうか、是非検討していただきたいと思います。それは、単なる共存というのではなく、私立は私立で、問題を抱えています、研修、教育の質向上のサポートを公立も含めてやっていけるよような連携ができるように取り組んでいただきたいと思いますし、そこに、市民や保護者が参加でき、多くの大人が責任を持って子育てや教育に関われる体制を考えていただきたいとおいもいます。

 現在、世界で一番注目されている幼稚園がイタリアのレイチェノル市にあります。その地域を訪問した時驚かされたのが、市の財政が一番使われているのが歴史的遺産の修復で、二番目に使われているのが幼児教育ということでした。そして、公立と私立の幼稚園の授業料が一緒なんです。指導主意とかにも私立幼稚園が入っている。親はどちらかを選べるようになっています。市長は、ニューズウィークリーに世界で最も優れた幼稚園と報道されて成功している公立幼稚園を増やす気はなく、どちらも選択でき、どちらに行っても不利のないようにという政策を作っていると言います。予算に至っては、一つは過去に、一つは未来に使っています。現在の利益とかに左右されていません。なおかつ、地域住民は子どもがいる・いないに関わらず、自分の住んでいる地域の幼稚園を支えるためその幼稚園に月に一回集まってます。保護者は週一回、9時に始まり2時くらいまで会議をしています。ワインを飲みながら。それが哲学的な話になったり、子どもの様子を語り合ったりスゴイ熱気で話をしています。驚いて質問しました。仕事と幼児教育を考えて活動することとどのくらいの比率ですかと。すると「ハーフアンドハーフ」と言いました。これは負けたと思いましたね。
グローバリズムの社会とは、国家中心ではなく、コミュニティーを中心とする社会なのです。ヨーロッパではすでにそうで、市の単位の方が中心となってきています。そうなった時にその市が経済や文化に置いても、活性化するためには歴史と文化と教育が大切なのです。これが生きていない地域は全て潰れていきます。これが21世紀の社会の大きな特徴だと思っています。その時こそ、幼児教育が人々をつなげ合い、その地域で街を作り合いコミュニティーを作るための格好の場所なのです。教育に貢献しようと言っているわけではないんです。街を作り、コミュニティーを作りましょう。子どものいない街は崩壊です、廃墟です。

 世田谷区は、幸いなことに11の公立幼稚園と52の私立幼稚園があり、そういう教育機関が機能しています。これを大切にして、子どもたちが過しやすくまた、子どもたちの未来が育て合っていけるような、そういう地域に是非していただきたいと思います。
            文責 区立幼稚園の存続を願う父母の会

| | Comments (3) | TrackBack (0)